「ねじの回転」(H.ジェイムズ)

「わからない」ことは恐ろしい

「ねじの回転」
(H.ジェイムズ/蕗沢忠枝訳)
 新潮文庫

「自分自身で
すべての問題を処理し、
依頼主を絶対に煩わせない」という
不思議な条件の下に、
ある幼い兄弟の
家庭教師を引き受けた「わたし」。
しかしある夜
「わたし」が見たのは、
兄妹を悪の世界に
引き込もうとする
亡霊の姿だった…。

映画の世界では、明確な姿形を持った
亡霊が流行かと思われます。
私は断片的にしか観ていないのですが、
「リング」の貞子、
「呪怨」の伽椰子など、
かなりはっきりと姿を現していて、
恐怖よりも
可笑しさを感じてしまいます。

それに比べて本作品の亡霊は、
その存在が極めておぼろげです。
イギリスの片田舎の古い貴族屋敷、
両親に先立たれた幼い兄弟と
使用人のみが住むという、
いかにもそれらしい舞台の中で
現れる亡霊は、しかし、
主人公の若い女性家庭教師
「わたし」にしか見えないのです。

正確に言うと、兄妹たちにも
見えていると思われるのですが、
二人は亡霊たちと意思疎通していて、
見えていることを巧妙に
隠している(と考えられる)のです。
そしてその亡霊は、
二人を悪霊の世界へと
導いている(と考えられる)のです。

「わたし」は、幼い兄妹を
「亡霊」から守ろうと奮戦します。
しかし館の誰も「亡霊」を見ていない、
もしくは見えていない、
「わたし」だけが目撃できているのです。
終盤で、「わたし」の唯一の味方である
家政婦・グロースも一緒に
亡霊と遭遇するのですが…
彼女も「見えない」と言い張ります。

ここで読み手は
強烈な不安に駆られることになります。
一体、亡霊は
存在しているのかいないのか?
考えられるのは次の三つです。
①「わたし」にだけ見えていて、
 グロースには見えない。
②グロースにも見えているが、
 理由があって頑なに否定している。
③主人公の精神が異常を来している。

そのどれでもあり得る不安感。
わからないことは怖いのです。

「わたし」の一人称で書かれ、
「わたし」が観たこと考えたことが
前面に出されているため、
読み進めるにつれて、
意識する間もなく読み手の魂は
否応なく「わたし」と
同化する仕組みになっています。
だからこそ、この「わからない」状態が
底知れない恐怖を覚えさせるのです。
「わたし」の無力感・孤独感は、
そのまま読み手の恐怖感・孤立感へと
つながります。

そうです。本作品は
単なるホラー小説ではないのです。
主人公の精神状態を
詳らかに描写することにより、
読み手の不安を
増幅させるという手法をとった、
れっきとした文学作品なのです。
激しい展開を期待してはいけません。
真綿で首をじわじわと締め上げる
心理描写こそ、
この作品の醍醐味なのです。

中学校3年生くらいで、
この怖さを読み取れるのであれば
素晴らしいと思います。
そろそろ涼しくなってきた夜に
お薦めの一冊です。

(2020.10.1)

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